「トミー富田のハーレム浅草下町考」

~現在は、全米36都市配布の「Weekly Biz」に連載中~

(※文章・写真の無断転用・転載厳禁です)

46.Sing Harlem Sing!(後編)~魂の声
45.Sing Harlem Sing!(前編)
44.イケ面TAPダンサー オマー・エドワーズ
43.ハーレムのオススメのデリ
42.セントラルパークの冬
41.笑っていいとも!
40.ジャズに名曲無し「名演」あるのみ
39.ショウマンズと私のストーリー(その二)
38.ショウマンズと私のストーリー(その一)
37.ハーレムウィーク2008開催
36.ハーレムでボーカルレッスン!
35.ハーレムの公文塾
34.アビシニアン教会200周年!
33.ゴードン・エドワーズの誕生会
32.交通違反のからくり
31.NYのさかなの話
30.キング・オブ・ハーレム・ソウル
29.マンションとアパートの話
28.ジャズの宝物~ルイ・アームストロングの家
27.ハーレムコミュニティ
26.ハーレムナイツコンサート~横浜がハーレムになる日
25.アポロ劇場とカーネギーホール
24.心の人~ジョニー・ハートマン~
23.美味しいソウルフード店あれこれ
22.NYで流行の「オープンマイク

21.NYで永眠する偉大なるジャズミュージシャンたち
20.HJGC~ハーレム・ジャパニーズ・ゴスペル・クワイヤー
19.アメリカとジャズの関係
18.「バンクトミー」と呼ばれた頃
17.ハーレムツアー20年!
16.いよいよハーレムの夏、ハーレムウィーク
15.ハーレムの道路事情

14.南部美人
13.Tap Dance Vol.2
12.遠くにありてにっぽん人
11.Tap Dance Vol.1

10.Thank You Apollo
9.メン・フー・クック
8.ハーレム出身政治家の本当の夢
7.アイム・フロム・モンゴル
6.アポロ劇場と日本人
5.R&Bの女王 ~ルース・ブラウン~
4.オルガンジャズ

3.ハーレム・ルネッサンス
2.ハーレムジャズの誕生
1.移り行くハーレム


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アポロ劇場とカーネギーホール~ (2007年5月掲載)

ハーレムNo.1の女性シンガーだったグロリア・リンに久々に会おうと、リンカーンセンターJazzのディジークラブへ行って参りました。ちょっと足を悪くしていましたが、76歳の年齢を感じさせない素晴らしい歌声でした。
ジョージア生まれハーレム育ちのグロリアは、1950年にアポロ劇場のアマチュアナイトで優勝後プロデビューし、60年にLove I’ve found Youが、64年にはI wish Loveが大ヒットして全米の大スターとなりました。レイ・チャールズ、エラ・フィッツジェラルド等と共演、後に、クインシー・ジョーンズ、ボビー・ティモンズ、フィリー・ジョー・ジョーンズ達とも共演し、ジャズ界でも大活躍しました。そのグロリアとは、こんな思い出があります・・・。

1991年、私の親友でドラマーの猪俣猛氏より連絡があり、”26人編成のJust Jazz All Starsというビッグバンドを組み、NYのカーネギーホールでコンサートを開きたい”と相談されました。前田憲男、原田忠幸、荒川康男、テリー水島、笈田敏夫・・・、日本の錚錚たるジャズメンを揃え、”Thanks, America”と題して、ジャズの国アメリカへ感謝を込めて恩返しをしたいという主旨でした。かなりの持ち出しで、全員ボランティアでしたが、彼等の強い思いに打たれ、私もボランティア協力することにしました。

当時、カーネギーホールの使用料と諸経費を含めた費用は、約12万ドル。コンサートの収益金は、NYの日本商工会議所と日本クラブの協力で、日系事業団体に寄付することにしました。

”せっかくだから、黒人音楽の殿堂ハーレムのアポロ劇場でもコンサートをやろうよ”という私の提案で、急遽、実現に向けてあちこち奔走。観客は地元黒人で満席にしたかったので、チケットを作ってあちこちに配り歩き、また、ハーレム商工会議所の後援で、地元の青年クラブとシニアの皆さんを招待することになりました。
アポロ劇場側からは、”動員の為、ゲストに誰か有名シンガーを迎えたい”と言われ、私は迷わずグロリア・リンを推薦しました。しかし、ちゃんと客席が埋まるのか、日本側では不安が隠せません。アメリカではこんなに有名なグロリアも、日本では余り知られていなかったのです。

さて、当日のアポロ劇場は・・・。地元黒人の観客で1階から3階まで超満員!ハーレムでのグロリアの人気は特に凄く、大変な盛り上がりでした。コールアンドレスポンスで感情をあらわに表現する黒人オーディエンスは、ステージ上のミュージシャンを最高に盛り上げ、熱気あるとても楽しいステージになりました。ジャズシンガー笈田敏夫氏も、この会場の雰囲気に高められるかのように、いつもより張り切ってグロリアとデュエットをしていました。彼のあんなに素晴らしい歌声を聞いたのは初めてでした。

一方、本命のカーネギーホールには、NY在住の日本人約2000人が集まりました。猪俣猛氏のバディ・リッチばりのドラミングは素晴らしく、エキサイティングで大成功でした。しかし、何故か私には、アポロ劇場ほどの盛り上がりが感じられませんでした。

あれから約15年。いまだにこの時ご一緒した日本の皆さんから、”実は、本命だったカーネギーよりも、ジャズにうるさい地元黒人客からアポロで大声援とスタンディングオベーションをもらったあの熱気と興奮がずっと忘れられない、最高だった”と言っていただきます。
当時、アポロ劇場の使用料は1万ドルで、諸経費を入れても1万1千ドル。最高のコンサートは、何と、カーネギーホールの”10分の1”の値段で実現したコンサートでした。

          
ハーレムで大人気のグロリア・リン   大型バスでアポロに招待された地元シニア
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心の人~ジョニー・ハートマン~ (2007年4月掲載)

私の家のすぐ傍、ハーレム138丁目&セントニコラス通りに、セント・マークス・ユナイテッド・メソジスト教会があります。昨年亡くなった天才ピアニスト、ジョン・ヒックスのお父さんが牧師を務めていたとても綺麗な教会で、地元ではジャズ教会としても知られています。ここのCultural Arts Committeeでは、ジャズをはじめとした色々なジャンルの音楽や映画のプロデュース、また貸しホールとして結婚式、パーティ等も行い、コミュニティの場として積極的に教会を開放しています。

先日ここで、ジャズクラシックのシンガーとして活躍したジョニー・ハートマン(1923~1983)のトリビュートコンサートが行われました。
1923年シカゴ生まれのジョニー・ハートマンは、幼い頃から教会の聖歌隊で歌い、奨学金でシカゴ・ミュージカル・カレッジを卒業後は、プロの道に入り活躍しました。1963年には、ジョン・コルトレーンとレコーディングした”They Say It’s Wonderful”が大ヒット、アール・ハインズ、ディジー・ガレスピー・オーケストラ等とも共演し、当時話題を集めました。特に、コルトレーンとの”Lush Life”は、ジャズボーカルの最高傑作と言われており、2000年にGrammy Hall of Fameに輝きました。

1980年、彼の初来日の時には、私の経営していた六本木バランタインに、ハンク・ジョーンズ・トリオと共に出演しました。とても物静かな紳士で、サインを求めると、日本語で“心の人”と書いてくれました。“ハートマン”という自分の名前を“心の人”と訳し、日本へ来る為に一生懸命練習してきたのだと聞いてとても感動しました。私のジャズクラブで、レコードと同じ美声をナマで直接聴くことが出来て幸せでした。

1983年に亡くなってしまいましたが、86年にはBig Band & Jazz of Fameに選ばれ、その後、クリント・イーストウッドの映画“マジソン郡の橋”でLush Lifeが使われました。

今回のトリビュートコンサートは、この教会でいつも歌っている娘のロリー・ハートマンと、ジュニア・マンス・トリオ、ゲストにサックスのジミー・グリーンを迎え、ダウンタウンのライブハウスでもなかなか聴けない渋いカルテットの演奏でした。娘のロリーと共演したジュニア・マンスは、私も以前、日本にブッキングしたことがある名ピアニスト。“ハンドレッド・フィンガーズ”といって10人のジャズピアニストが出演する日本で話題のコンサートにも毎年選ばれています。

ハーレム地区には約250の教会があります。これ等の教会では、毎週のようにどこかで著名なミュージシャンやシンガーによるトリビュートコンサートや慈善コンサートが行われています。入場料は、たいてい10ドルから20ドル前後、またはドネーションのみであることが多く、とても身近に一流ミュージシャンの演奏が楽しめます。これも、音楽の街、ハーレムに住んでいる特権だなぁ、としみじみ思う毎日です。

        
“心の人”ジョニー・ハートマン       教会でジュニア・マンスと                  HOMEへ戻る


美味しいソウルフード店あれこれ (2007年3月掲載)

ソウルフードとは、アメリカ奴隷時代の南部の黒人達が、ご主人が残したり食べなかったものを工夫し、煮込んだり焼いたり再生して自分たちの食事にしていたものが語源で、生(ナマ)がありません。一般的にソウルフードと呼ばれるものには、サウス・カロライナ地方のサウザンスタイル、ルイジアナ地方のケイジャンスタイル、ニューオーリンズ地方のクレオールスタイルがあります。

ハーレムを代表する有名なソウルフードの店は「シルビアズ」で、81歳のシルビアおばさんのおふくろの味が、人種を問わず広く親しまれています。1962年のオープン当初は、わずか35席だったお店も、現在では450名収容となり、地元の人はもとより、世界中から観光客も訪れ、連日賑わっています。でも、この店で本当に美味しいのは、朝7時からのブレックファーストで、「グリッツ(コーンミール)と卵料理」がとても安くて人気があります。

現在、ハーレムで大繁盛しているソウルフード店といえば、116丁目にある「エイミールース」です。オーナーのカール・レディングは、黒人活動家アル・シャープトンの元ボディガードをしていた大柄の男で、和洋何でもこなす料理の達人です。ここの「チキン&ワッフル」は天下一品で、朝から真夜中まで、いつも地元の人達で賑わっています。

そして、今、私の一番のお気に入りは、ハーレムの奥地151丁目にある「チャーリー」です。NYレストランの採点本「ザガットサーベイ」で、30点満点中27点と高評価され、ソウルフード部門ではNo.1に輝いていながら、地元の人以外には余り知られていない、私のとっておきの店です。20人も入ったら一杯の店内はいつも満席で、ここにはよくウーピー・ゴールドバーグ等、黒人スターが食べに来ています。チャーリーが作る「フライドチキン、スペアリブ、オックステール、カラードグリーン、マカロニチーズ」は最高です。

この他には、西110丁目に「スプーンブレッド2」があります。ここは、元モデルのノーマ・ダーディンの家庭料理が売り物で、コロンバスアベニューに近いことから、白人客も多いのが特色です。

それから、125丁目のクリントンオフィスの並びにある「モーベイ」も人気があります。最近、スティービー・ワンダーや俳優のデンゼル・ワシントンも訪れたと言う話題の店です。

さらに昨年、125丁目ステートオフィスの前に「Pier 2110」という大きなシーフードレストランがオープンしました。ここは、「マナズ」というソウルフード・ビュッフェの店がハーレムで大当たりした韓国人女性、ベティ・パークさん経営のお店です。ハーレムには珍しく綺麗でお洒落なインテリアで、ゆったり150名は入る広さ。当初は、寿司とシーフード中心のメニューにしていましたが、徐々にソウルフードメインに切り替えて成功しています。

ハーレム地区には、まだまだ沢山オススメのソウルフード店がありますが、実はダウンタウンにも本格的なソウルフード店が幾つかあります。W45丁目にある「ジャジベル」がそのひとつです。もともとファッションの仕事をしていたオーナー、アルバータさんのセンスが随所に光る豪華なインテリア、壁には黒人アーティストの絵が飾られていて、雰囲気も料理もとてもいい店です。

W74-75丁目にある「シャークバー」も本格的ソウルフードを出す店として知られています。ここは、バッピー(ブラックヤッピー)が集まる店として人気です。

黒人の家庭料理ソウルフードレストランは、実はハーレムだけではなく色々なところに点在していて、皆、おふくろの味が懐かしくなってはソウルフード店に立ち寄るのです。

     
20年来のハーレムの親友、シルビアさんと     代表的なソウルフードメニュー
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NYで流行の「オープンマイク」 (2007年2月掲載)

今、NYでは、オープンマイクが大流行です。
これは、バンドの生演奏をバックに歌えるシステムで、ベテランシンガーや売り出し中の新人歌手からアマチュアまで、色々なシンガー達が飛び入りで出場するステージです。

オープンマイクは、エントリーさえすれば、たいてい誰でも出演することが出来ますが、ポイントはそのレベルです。
時折プロも飛び入りする非常にレベルの高いオープンマイクから、素人が気軽に出演できるカラオケ感覚のオープンマイクまで、レベルも様々、またジャズ専門からソウル系、ポップス、ロック系など、音楽のジャンルも幅広くありますので、NYでオープンマイクに挑戦する方は、一度実際に下見をして、自分に合っているかどうか確認してからエントリーすることをオススメします。

(以下省略)

「是非、一度挑戦してみたい!」という方は、私の長年の経験から、ジャンルもレベルもピッタリ合ったオープンマイクに上手く出演できるようアドバイスいたしますので、どうぞご一報下さい!(HarlemVocal House  *tel : 1-646-410-0786)

     
抜群の司会のロン・グラント            NYには日本のプロ顔負けのシンガーが沢山
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NYで永眠する偉大なるジャズミュージシャンたち (2007年1月掲載)

先日、ソウルの帝王ジェームス・ブラウンが亡くなり、遺体がハーレムに運ばれて、私も参列してまいりました。
ところで、私のところへはよく、日本のジャズファンの皆さんから“有名ミュージシャンたちの墓”についての問い合わせがあります。特に、1940-60年代にNYを拠点に活躍していたジャズの巨匠マイルス・デイビスやジョン・コルトレーン、セロニアス・モンクに関する問い合わせを多くいただきます。レコードを何度でも擦り切れるほど聴いて思いはつのれど、もう生のライブ演奏を二度と見ることは出来ない・・・という憧憬の念から、せめて彼等のお墓参りをして、少しでも身近に接したいというファンならではの熱い思いでしょう。

私もアメリカに来た当初は、懸命になって大好きだったミュージシャン達の墓を探し廻ったものです。当時は、今のように便利なインターネットも無かった時代、情報はとても少なく、書物や記事などのかすかな手がかりを頼りに、実際に自分の足で探し当てては追悼に出掛けていました。

まず、ジャズ界最高峰のトランペッター、マイルス・デイビス(1926-1991)の墓は、ブロンクスのウッドローン墓地にあります。1863年にできたセントラルパーク半分の広さの巨大な墓地で、メイシーズのR.H.メイシー氏をはじめ、約30万人の御霊が眠っています。車じゃないとなかなか行けないへんぴなところにありますが、その昔は、このお墓へ来る為だけにわざわざ設けられた特別列車“ハーレム鉄道”が利用されていました。
入口を入ったらすぐにメインオフィスで地図をもらい、係りの人に「マイルス・デイビスのお墓はどこですか?」と尋ねてください。アベニューとストリートで区分された道順を行くと、マイルスの墓に行き当たります。悪戦苦闘の末に辿り着く、とても立派なマイルスの墓にはファンならずとも感激するでしょう。

マイルスの墓の左には、スウィングジャズの王様、デューク・エリントン(1897-1974)家の墓が4つ並んでいます。右隣には、1昨年前に亡くなったテキサステナーズ、イリノイ・ジャケー(1922-2004)の真新しい立派な墓があります。生前、私も家族ぐるみで親しくお付き合いさせていただいたイリノイの墓は、大理石に掘った彼の写真がとても鮮やかでひときわ目立っています。更に奥へ進むと、ブルースの父W.C.Handy(1873-1958)の墓があります。彼は、セントルイス・ブルースの作曲家で、私の住んでいるハーレムのストライバース・ロウには、今も彼の住み家が残っています。

ウェストチェスターにあるフェーンクリフ墓地には、奇才ジャズピアニスト、セロニアス・モンク(1917-1982)の墓があります。ここは、マンハッタンから25マイル離れた閑静な住宅地にある巨大な墓地です。他にも、ハーレム・ルネッサンスを代表する作家ジェームス・ボルドウィン、ブルースの母アルバータ・ハンター、女優ジョン・クロフォード、そしてジョン・レノンの墓があります。

そして、ロングアイランドにあるパインロウン・メモリアル・パーク墓地には、天才サックスプレイヤー、ジョン・コルトレーン(1926-1967)の墓があります。この辺りは6つの広大な墓地とゴルフコースが隣接しており、私は当初、なかなかコルトレーンの墓を見つけられませんでした。ですから、3度目の訪問でようやく辿り着いた時には、思わず感激したことを憶えています。

このように、有名ミュージシャン達の墓を訪ねるまでには、結構な時間と労力と、時には旅費などを費やすこともありますが、憧れ続けた人の永眠の地に実際立つことが出来た時には、自分と彼等がどこか繋がったような大きな感動があるものです。(NYジャズ史跡&墓地巡りツアーのお問い合わせは1-646-410-0786トミーまで)

     
マイルス・デイビスの墓                   イリノイ・ジャケーの墓
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HJGC~ハーレム・ジャパニーズ・ゴスペル・クワイヤー (2006年12月掲載)

アメリカのブラックミュージック全てに共通の独特のリズム感(スウィング感)・即興性・グルーヴ感・ラップ(会話)的要素などのエッセンスは、ルーツであるゴスペルミュージックの中にその原型を見出すことが出来ます。ジャンルを問わず多くの著名な黒人ミュージシャン達が、若い頃の教会での音楽経験から大きな影響を受けていることは広く知られています。ジャズが大好きでハーレムに住み始めた私も、ソウルフルな黒人のゴスペルにすっかり魅せられ、この21年間、毎週欠かさずハーレムの教会を訪ねています。

Gospelを日本語に訳すと“福音~Good News神様からの良い知らせ”。ゴスペル音楽が聴く者を強く惹きつけるのは、アフリカン・アメリカンが経験してきた奴隷制や人種差別といった厳しい歴史の中で、歌うことが唯一の自由であり、歌う=祈ることにより強く生きていくパワーを得ていた、という背景がSoulとして伝わってくるからでしょう。ブラックミュージックの表面的な格好良さばかりを追うのではなく、黒人文化の根底にある感情を少しでも共有し、本物のゴスペルに触れてもらいたいと思い、ハーレムにあるメモリアル教会の故プレスト・ワシントン牧師に相談して、ハーレム初の日本人ゴスペルクワイヤーHarlem Japanese Gospel Choir(HJGC)が誕生したのが1997年のことでした。

毎週土曜日に教会の使用許可をいただき、知人を集めてゴスペルワークショップを始めました。最初は7~8人でしたが、やがて日本でもゴスペルブームがにわかに起こり始め、NYの日系誌や食品店に広告を出すと、毎回20~30名が集まるようになりました。学生、主婦、社会人が中心ですが、中にはプライベートでNYを訪れているプロの方の参加もありました。講師陣には、シシー・ヒューストン、マライヤ・キャリー、ベット・ミドラーとも共演した経歴もある黒人の先生、ゴスペル界で人気の音楽監督など、素晴らしい方々を教会が紹介してくれました。

私自身は歌いませんが、主宰としてNPOの許可を取り、無償で運営していると、やがてハーレム地区以外でも話題になり、クイーンズ、ブロンクス、遠くはペンシルバニア等の教会や老人ホームからもオファーが来るようになりました。バプティストの総本山アビシニアン教会出演の際には、流石に私も緊張したものです。「日本人がハーレムでゴスペルを歌っている」と珍しがられ、NBCテレビ、NYタイムス紙、デイリーニュース紙など、沢山の取材もやってきました。

しかし、9.11のテロ事件を契機に、相次いでメンバーが帰国し、我々HJGCのワークショップも一時は4~5人までに減ってしまいました。それでも、私たちは毎週土曜日にワークショップを続けました。ミッドタウンにあるNY最大の日本人コミュニティ「日本クラブ」でもワークショップを開催し、HJGCと合同のコンサートも定例化してきました。今年もハーレムの教会で12月24日にクリスマスコンサートを開きます。

そして来年、いよいよHJGCも結成10周年を迎えます。私のクワイヤーから帰国したメンバーが大阪で結成したハーレムJPクワイヤー、仙台や名古屋のゴスペルグループ、そしてHJGCのワークショップにこれまで参加してくれた沢山のゴスペルシンガー、お世話になった教会や講師陣がハーレムに集結し、来年は10周年記念コンサートを開く予定です。
もっともっと沢山の方が本当のゴスペルと出会っていただけるよう、これからもずっとハーレムで皆さんのお越しをお待ちしております。
        
※ワークショップ、コンサートのお問い合わせは1-646-410-0786 (Kimikoまで)




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アメリカとジャズの関係 (2006年11月掲載)

先日、テキサスのダラスに行って参りました。そして、ディントンにあるノーステキサス大学のジャズ科を訪ねました。
ジャズ科というと、バークレー(ボストン)やジュリアード、マンハッタン・スクール・オブ・ミュージック(共にニューヨーク)等の私立大学が有名ですが、州立の大学で「本格的に」ジャズ科があるのは、アメリカで最初にジャズ科を作ったこのノーステキサス大学だけだと言ってもいいでしょう。

大学内には、ジャズの偉大な作曲家、スタン・ケントンの名を付けたホールがあり、ここではニール・スレイター氏が監修するOne O'clock Lab Band(ワン・オクロック・ラボ・バンド)が有名です。若い学生たちが、設備の整った各学科で学び、Nine O'clock Band からEight、Seven ....Two O'clock Bandまで8つのバンドで修行して、最高峰のOne O'clock Bandまで上がれるように一生懸命頑張っています。One O'clock Bandになると、学生バンドながら、モントル・ジャズフェスティバルの他、香港、フィンランド、ドイツ、ポルトガル等のジャズフェスティバルへの出演も約束されている世界的に有名なビッグバンドとして評価され、CDも世界発売されるためです。

しかし、この学校の大半の学生たちは、卒業後、ビジネスマン、弁護士、学者などの、音楽とは直接関係していない職業に就いていきます。勿論、メイナード・ファーガソン・オーケストラや、デューク・エリントン・オーケストラに入団する人もいます。また、ハープ・アルバートのように、ジャズ界のトップで活躍している人も沢山います。でも、多くの学生たちは、在学中に一般教養としてジャズを身近に学び、その中からアメリカの歴史や文化を勉強しているのです。

日本の学生の場合は、ジャズを勉強するというと、バークレーやジュリアードなどの音楽専門大学に入り、卒業後に当然のようにジャズ・ミュージシャンへの道を選んで、苦労してしまう人も多いようです。しかし、アメリカでは、このノーステキサス大学を始め、名門といわれる大学で、アメリカ文化や歴史を「ジャズ史を通して」学び、ジャズを楽しんで、卒業後はそれぞれの目指す職業へ進む人が結構多いのです。

ですから、アメリカには、ビル・クリントン元大統領のような、玄人はだしのサックスプレイヤーも沢山いるわけです。コロンビア大学で政治学を教えている、私の友人のジェリー・カーティス教授のように、政治学者として国内外でとても有名でありながら、一方、プロピアニスト顔負けの素晴らしいピアニストでもある、というアメリカ人が結構いる訳です。

ジャズがアメリカで愛されているのには、ジャズに対する身近で奥深い歴史が感じられます。


              
最高峰の学生ビッグバンドOne O'clock Band
       各界にプロ顔負けのプレイヤーも多い   HOMEへ戻る


「バンク・トミー」と呼ばれた頃 (2006年10月掲載)

私が現在住んでいる「ストライバース・ロウ」は、昔、成功した黒人が住むと憧れられていたハーレムの高級住宅地で、今でも、黒人の弁護士や医師、政治家、最近では白人の若い小金持ちの夫婦も好んで住むようになって来ました。以前は、日本人と見ると「チェンジ、チェンジ」と言って手を出してくる黒人が山ほどいましたが、最近ではそれも随分と少なくなりました。

私がハーレムに住み始めた20年程前、123丁目マンハッタンアベニュー角の“パークス”という高級クラブがあるブラウンストーンの3階に住んでいた頃は、周りじゅう“物乞い”ばかりでした。すぐに近所の人たちと顔見知りになり、たかりや脅しに遭うことは無くなったものの、モノやお金を借りに来る人がひっきりなしでした。
日本人は金持ちのイメージがあったのか、街角で声を掛けてくるばかりでなく、「金を貸してくれ」「タキシードを持ってないか?」と家にまで見知らぬ人が訪ねて来るのです。想像できないかもしれませんが、その数が半端じゃないほど多く、だんだん面倒臭くなって、1~2ドル渡して引き取ってもらっていました。
しかし、これが近所で評判になり、とんでもない遠いところからも借りに来るようになってしまったのです。玄関のベルが鳴り、降りていくと知らない黒人が立っていて、「すぐそこのビルに住んでいるんだけれど、子供が病気なので5ドル貸してくれ」と言って手を差し出す。また次の日には見たこともない黒人の女性が「この並びに住んでいるんだけど、ニュージャージーへ行くのに電車賃が足りないので3ドル貸してくれ」と言ってくる・・・。ビルの下から大声で何度も私を呼ぶので、窓から1ドルを包んで投げて渡す・・・・。

ビルの管理人のボブに言わせると、当時、私は「バンク・トミー」という、何とも有難くないニックネームで呼ばれていたようです。

貸したお金は、そのままの人もあれば、律儀に返しに来る人もいました。私ももう誰にいくら貸したか覚えていない状況でしたが、玄関に老人が立っていて、「この間借りたお金、返しに来ました、有難う!」とクシャクシャになった5ドルを差し出された時には、何だかとても嬉しい気持ちになったものです。

東京下町の商人の家に生まれ、正直者の父親から、お金の貸し借りには厳しく注意されて育った私。人情家だった母親は、困っている人を見ると、父に内緒でお金を貸し、終始踏み倒されていました。そんな母を、私は子供心に“お人よし”と思い、自分は几帳面な父親似で金銭の貸し借りなどご法度だと考えていたので、ハーレムでの自分の変わりように自分で驚いていました。

しかし、こんなこともありました。ブロンクスの友人を訪ねる途中、道を間違えた上に大雨に降られ、民家の軒先で雨宿りをしていたら、通りがかりの黒人のおばさんが、私に1ドル札をしっかり握らせ、早口で何か言って去って行ったり、バスに乗って小銭が無いことに気付き慌てている私に、乗り合わせた黒人のおばさんが「次に会った時に返してくれればいいよ」とコインを差し出してくれたり・・・。キョロキョロ不安そうにしていた見慣れない可哀想な東洋人に同情してくれたのでしょう。

この町もまだまだ捨てたモンじゃない。温かい人情が残っていて、私の故郷、浅草にどこか通じるところがあるんです。


         
20年前住んでいた123丁目ブラウンストーン      遠方からもバンク・トミーにお金を借りに来た
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ハーレムツアー20年! (2006年9月掲載)

東京六本木で3店のジャズクラブを経営しながら、毎年NYを訪れていましたが、「本場のジャズと生活したい」とNYへ移り住んで23年。ハーレムでの生活も、ハヤ20年となりました。

その頃はハーレムに住んでいる日本人なんて他にいませんでしたし、また私がジャズに詳しかったということもあり、NYを訪れる知人に頼まれては、ハーレムのジャズクラブやゴスペル教会に案内していたことから、私の「ハーレムツアー」は始まりました。
当時のガイドブックの地図は、殆どセントラルパークの途中で切れていましたが、「地球の歩き方」等に初めてハーレムの地図と記事を加え、「スィングジャーナル」他いろいろな雑誌にハーレムジャズを紹介しているうちに、お陰様でトミーツアーも有名になってきて、本腰を入れてツアーをする毎日になりました。

この20年余りの間にご案内したのは約10万人、中には著名な方々も沢山いらっしゃいました。
私がハーレムに興味を持つきっかけとなったフォトジャーナリストの吉田ルイ子さん、彼女の「ハーレムの熱い日々」にはとても強い影響を受けました。その後NYを訪れたルイ子さんは、私のハーレムツアーに参加してくださいました。私の2冊目の著書「浅草系ハーレム人 劇場都市ニューヨーク」の名付け親でもあります。

国連50周年でNYを訪れた大江健三郎氏は大変ジャズ好きで、デューク・エリントンやビリー・ホリデイの家、ミントンズプレイハウス等へご案内しました。学生時代に黒人作家ラングストン・ヒューズの家に下宿していたと聞きビックリしました。

自民党の加藤紘一氏は、地元の常連客で賑わうソウルフード店がすっかり気に入り、またショウマンズで聞いたジョージ・ベンソンにとても感激して、その後NYを訪れる度にお電話を頂くようになりました。

SETの三宅裕司氏はドラマーでもあり、ハーレムのジャズクラブで飛び入り演奏を希望されましたが、実際のジャムセッションを見てビックリ、辞退してしまいました。

女優の松金よね子さんはとても気さくな方で、アポロの真剣勝負のステージにとても感動されました。

六本木時代からのお店の常連、ジャズシンガーの阿川泰子さん、マリーンさん、「笑っていいとも」等の作家としてもお馴染みの嵐山光三郎氏、高平哲郎氏、ラグビーの松尾雄治氏等・・・NYへ来た時にはとても懐かしくご案内させていただきました。

ワハハ本舗の梅ちゃん(梅垣義明氏)とは、連日ハーレムの怪しげな店を探求しました。

そして、15年程前に私のツアーのアシスタントをしてもらっていたSkoop on SomebodyのTAKEこと武田雅治氏は、一緒にツアーを廻りながらジャズクラブやレストランで飛び入り出演させ、ハーレムで大変ウケました。最近、彼等の書いた自叙伝「Stories」の中で、私のことも少し紹介してくれているようです。

その他にも、歌手の平井堅氏、トータス松本氏、俳優の竹之内豊氏、篠原涼子さん・・・等、人気の方々も数多くご案内させていただき、皆さんとても気さくにツアーを楽しんでくださいました。

20年間、毎日毎日ハーレムで大好きなジャズとゴスペルを聞きながら、こうして仕事が出来ていることは本当に最高です!


               
ハーレムにて                  アポロシアターにて               HOMEへ戻る


いよいよハーレムの夏、「ハーレムウィーク」! (2006年8月掲載)

7月19日、今年もまたニューヨーク市長邸グレイシーマンションにご招待いただき出掛けて参りました。
ハーレム商工会議所110周年と、2006年度ハーレムウィークの開催を記念して行われた園遊会です。

マイク・ブルムバーグ市長の歓迎挨拶の後、約500名の招待客が、庭いっぱいに設けられた大テントの中で、ブッフェスタイルのソウルフード(黒人の家庭料理)と飲み物と音楽と会話を、それぞれに楽しみました。特設ステージでは、ロン・アンダーソン・オーケストラの演奏で、ジャズやR&Bが演奏されました。

88丁目のイーストリバー沿いにあるグレイシーマンションは、美しいコロニアルスタイルの白亜の建物で、NYCのランドマークに指定されています。ここは、マンハッタン内に現存する数少ない庭付き一戸建て大邸宅のひとつで、NY市長邸として歴代の市長ファミリーが暮らしてきました。しかし、現ブルムバーグ市長は、79丁目5番街&マジソン街にあるタウンハウスのご自宅がお気に入りで、市長邸には住んでいません。そして、毎日、自宅から市長邸グレイシーマンションに通っています。最近、この79丁目の自宅界隈も、マイク・ブルムバーグ・プレイスと呼ばれるようになっているようです。

厳しいセキュリティを通過して、パーティ会場へ入場した招待客の中には、タイムワーナー社長のリチャード・パーソンズ氏、ハーレム商工会議所会長のロイド・ウィリアムス氏、などなど錚々たる常連メンバーに加え、今年は、映画監督スパイク・リー氏の顔もありました。

長年ブラックフィルムの制作とブラックカルチャーの発展に努めてきたスパイク・リーは、この日、雑誌EBONYとハーレムウィークから「ハリウッド・イン・ハーレム賞」を受賞しました。80年代後半から90年代、彼はジャングルフィーバー、マルコムX、クルックリン、クロッカーズ他、数多くのブラックムービーを制作、ブルックリンのデカルブ通りに、スパイク・リー・ジョイントというShopもありました。40エーカーとうブランド名で、日本にも渋谷と原宿はじめ各地に支店を出し、当時ブラック・カルチャー好きの日本の若者に大変人気がありました。その頃は私のブルックリンツアーでも、スパイク・リーの店に立ち寄ることが定番でした。「ウチのスタッフは黒人のみ」と掲げられていた店、スパイク・リーがいる時には、私を見かけるとすぐにオフィスから出てきてツーリストに快くサインをしてくれました。現在は閉店してしまいましたが、スパイク・リーの話しによると、近いうちにその辺りが「スパイク・リー・プレイス」と名付けられることになるようです。

他にも、ステージでは、ソウルシンガーのロイド・プライス、フレディ・ジャクソン、そしてアリーシャ・キースやアポロ劇場の音楽監督を務めるレイ・チュー等、今年ハーレムウィークキックオフコンサートに出演予定のミュージシャン達が次々と紹介されました。

先週日曜日、「グラント将軍の墓」で一般客2万人を集めてのキックオフ「グレート・デイ・イン・ハーレム」も無事終了し、いよいよ8月!本格的に「ハーレムウィーク」が始まりました。Welcome to Harlem!


     
NY市長邸グレイシーマンション         Hollywood In Harlem受賞のスパイク・リー監督      HOMEへ戻る


ハーレムの道路事情 (2006年7月掲載)

マンハッタン110丁目を越えハーレムに入ると、道路の標識が変わってきます。
イエローキャブの運転手もよく知らずに道を間違えます。

まず、ハーレムのメインストリート125丁目は、「Dr.Martin Luther King Jr.BLVD(キング牧師通り)」と示されています。公民権運動の指導者で、1月15日の彼の誕生日にちなみ、毎年第3月曜日がアメリカのナショナルホリデイに指定されています。

5番街は、ダウンタウンと同じ「5th Ave」の呼び名ですが、6番街は「Lenox Ave(レノックス通り)」または「Malcolm X BLVD(マルコムX通り)」と呼ばれています。黒人運動のリーダー、マルコムXの拠点だった116丁目Lenox Aveの角にあるブラックモスレムのビルは、屋上にグリーンの大きな玉があり、彼の奥さん“ベティ・ジャバズー”の名前が付けられています。

7番街は、黒人として始めての国会議員として活躍したアダム・クレイトン・パウエルJr.にちなんで「Adam Clayton Powell Jr. BLVD」と呼ばれ、125丁目と7番街の角にある彼の名前が付けられたハーレム唯一の高層ビルには、ステイトオフィスがあります。1987年10月9日に、今の天皇陛下・皇后様が、皇太子・美智子様時代にここを訪れ、地元の人達の大歓迎を受けました。

8番街は、110丁目までは「セントラルパークウェスト」と呼ばれていますが、110丁目より上は、「Frederick Douglass BLVD(フレデリックダグラス通り)」と呼び名が変ります。“ニグロワールド”という初めての黒人新聞を創刊した人です。

この他に、ハーレムのブロードウェイと呼ばれている「St.Nicholas Ave(セントニコラス通り)」があります。斜めに縦断し、北へ延びている道路です。これもダウンタウンには無い通りなので、よく道を間違えやすいところです。

125丁目アポロ劇場の前の道は、「Nat King Cole Walk(ナットキングコール通り)」と名付けられています。これは、娘のナタリー・コールが“アンフォゲッタブル”のレコード収益金より10万ドルを市へ寄付し掲げられたものです。

137丁目の7番街と8番街の間は、「John Henrik Clarke Place(ジョンへンリッククラークプレイス)」の名前が付いています。私の著書の中でも生前インタビューをさせていただいたことがありますが、彼はコーネル大学などでアフリカ学を教え、“フリーダムウェイズ”の編集者として知られ、“ハーレムUSA”の著作があり、マルコムXと深い親交を持った人でした。

ラテンの街East Harlemの110丁目には「チト・プエンテ」、111丁目には「マチート」、とラテン音楽の功労者の名前が刻まれています。この春、セントラルハーレム122丁目「Manhattan Ave(マンハッタン通り)」の角には、タップダンサーのレロイ・メイヤー氏のコーナーができました。

この他にも、数えたらきりがないくらい沢山の人たちの名前が残る場所がありますが、主なものは、第106代目の黒人初の市長として活躍したデイビッド・ディンキンス氏が作ったと言われています。
  

      
ハーレムのアベニューの標識            ストリートに掲げられたハーレムの偉人の標識        HOMEへ戻る


南部美人 (2006年5月掲載)

ハーレムには、奴隷解放後、サウスキャロライナ・ノースキャロライナ・ジョージア・アラバマ・ルイジアナ等、ダウンサウスと言われる南部地方から流れてきた人達とその子孫が多く住んでいます。中でも、サウスキャロライナ・ノースキャロライナ出身の人達が特に多く、これ等のルーツを持つ人達には、誇れるものが3つあります。

第一に、”Southern Hospitality”(サウザン・ホスイタリティ)と呼ばれる南部の温かいもてなしの気風です。
南部出身の人達は、皆、人なつっこくてお人好しな性格で、とても人情深いところがあります。これは、私の生まれ育った東京浅草の下町とよく似ているところがあります。

第二に、“Southern Belle”(サウザン・ベル)=南部美人がとても多いところです。
その「美人」の条件とは、“胸が大きくて、お尻がツンとしてとっても大きいこと”で、そんな女性が今でも男性からもてはやされています。
また、ニューオーリンズ地方出身者には、“クレオール”と呼ばれる人達が沢山います。これは、フランス人と黒人の混血で、目が緑色でとても綺麗。クレオール美人と呼ばれています。

第三に、“Southern Drawl”(サウザン・ドロウ)といわれる南部訛りがあります。
最初はチョットわかりにくいけれど、慣れるととても気持ちが良い響きの訛りで、ラッパーたちの歌い方もその流れをくんでいるところがあります。毎朝すれ違う人達は、決まって「ハウユードゥーィン(How are you doing?)」と声を掛けてきます。

もうひとつ、”Hanging out on the street corner“(ハングアウト)といわれる独特の習性があります。
昔から街角が彼等の社交場で、必ずDeli(デリ)の前や歩道の角に、沢山たむろしています。冬の寒い時でも、夏の暑い日でも、一年中街角に立ち、仲間が来るのを待ち、声を掛け、世間話をしています。ダウンタウンから来た人達や旅行者には、これがちょっと不気味で怖く映るかもしれませんが、大抵の場合は何か悪いことをしているわけではなく、ただたたずんでいるのです。こちらから気楽に「ハーイ!」と声を掛けると、「ハウユードゥーイン?」と笑顔で応えてくれます。

まだまだこのNYに残る人種差別も、ここハーレムにはありません。新聞を騒がすような大きな犯罪は、昔から住んでいる地元の人達ではなく、地方から流れてきた人達によるものが殆どです。

今年も、もうすぐ暑い夏がやってきて、ハーレムの街角も忙しくなってきます。人々は、暑くて狭い部屋から抜け出して、家の外にイスを出し、ハングアウト人口も急増します。カードやチェスにバーベキュー、さらにはブロックパーティに無料コンンサート、と家の外で過す時間が増えてきます。ハーレムの街角には南部美人が溢れ、通りすがりに南部訛りを耳にし、そしてストリートで温かい南部のもてなしに触れる楽しい季節がやってきます。


         
ハーレムで人気の南部美人        ハングアウトでいつも賑やかな街角             HOMEへ戻る


Tap Dance Vol.2 (2006年4月掲載)

(前回Tap DanceVol.1では、時代を代表するタップダンサー達とハーレムのつながり、また私との交遊録について言及しました、今回はその続編)

1990年11月12日に亡くなったCharles ”Honi” Colesのお葬式は、Lexington Ave.のSt. Peters Churchで行われました。当日は、昔の仲間“コパセテックス”のメンバーだったレロイ・メイヤーズ、ババ・ゲインズ、バスタ・ブラウン等がタップを踊り華やかに追悼しました。当時まだ若かったセヴィアン・グローバーがステージに上がりお別れの言葉を読もうとしましたが、悲しくて言葉にならず、タップでハニー・コールズに別れの挨拶をしました。

その3ヵ月後に、アポロ劇場で改めてハニー・コールズの追悼式が行われました。グレゴリー・ハインズの司会で行われた式典には、コパセテックス、ニコラス・ブラザーズ、セヴィアン・グローバー、トミー・チューン、ハロルド・クローマー、サミー・デイビスJr.のお母さん等、ニューヨークを代表するタップダンサー達が一同に会し、とても素晴らしい式でした。中でも、グレゴリー・ハインズとセビアン・グローバーの追悼タップは印象的でした。最後に、この豪華メンバーに加え、場内のタップダンサー達全員がステージに上がり、追悼タップを踊りました。

その司会をしたグレゴリー・ハインズも、2003年8月に亡くなってしまい、彼もまたアポロ劇場で沢山のタップダンサーのタップで見送られました。
ハーレムに生き続けるタップダンスの伝統は、ビル“ボージャングル”ロビンソン、ニコラス・ブラザーズ、ハニー・コールズ、グレゴリー・ハインズ、そしてセヴィアン・グローバーへと受け継がれています。

アメリカで一番の人気と実力のタップダンサーといえば、グレゴリー・ハインズ亡き今、セヴィアン・グローバーを置いて他にはいないでしょう。天才少年といわれたセヴィアンは、12歳の時に“Tap Dance Kid”で映画デビューし、その後ブロードウェイミュージカル“Black and Blue”に出演して注目を集め、1988年にグレゴリー・ハインズ、サミー・デイビスJr.と“TAP”という映画に出演しました。1992年にグレゴリー・ハインズと共に“Jelly’s Last Jam”に出演、そして1996年にブロードウェイミュージカル“ブリンギング・ダ・ノイズ・ブリンギング・ダ・ファンク”主演でトニー賞6部門を獲得し話題を集めました。

そのセヴィアンは、現在ワールドツアーに取り組んでいます。ロシアから南米のコロンビアまでツアーを行い、4月11日より16日まで、東京国際フォーラムホールで「クラシック音楽と夢のコラボレーション」と題して、6日間8回公演が予定されています。NYでは昨年ジョイスシアターで「クラシカル・セヴィアン」を演りましたが、東京でも「ヴィヴァルディの四季」「バッハのG線上のアリア」「ブランデンブルグ協奏曲」などを演じる予定です。その為に、NYから弦楽団12名とジャズミュージシャン4名を引き連れていきます。新聞の一面広告やTVスポット、また「たけしの誰でもピカソ」に出演するなど、日本側でもプロモーションに力が入っており、もう既にチケットも完売に近い売れ行きだそうです。

もともとTAP好きな私には、映画“TAP”でのセヴィアンの幼い姿、“Black&Blue”での若さ溢れるタップ、“Jerry’s Last Jam”でグレゴリー・ハインズの若かりし頃を演じたあのシーン、ハニー・コールズのお葬式で涙ながらにタップを踊った時、アポロ劇場でのグレゴリー・ハインズとの共演・・・数々の場面が今でも目に焼きついています。

先日NYのジョイスシアターで行われた“ゴスペルとTAPの競演”の際、楽屋でセヴィアンとお会いしたばかりですが、あのあどけない素朴な青年が、一方では世界を股に架け、今日こんなに大きく成長しているとはまるで夢のようです。
            

                      
アポロでグレゴリーハインズと共演する若きセヴィアン    ジョイスシアターのセヴィアンの楽屋にて        HOMEへ戻る


遠くにありてにっぽん人 (2006年3月掲載)

一昨年の10月、NHKの”遠くにありてにっぽん人”というBSのTV番組に出演しました。
私のハーレムでの生活を特集した1時間のドキュメンタリーフィルムで、日本からディレクターとカメラマン2名がやって来て、約1ヶ月に渡り密着取材していただきました。朝から晩まで、私の過密スケジュールに合わせ、殆ど毎日撮影されました。

ハーレムに暮らして20年、私が付き合っている友人達、アポロ劇場、ジャズクラブ、ハーレム商工会議所での会議、ゴスペル教会、麻薬中毒患者のリハビリセンター、毎月行っている老人ホームやナーシングホームでのボランティア、タップダンスの慰問から、連日開かれる近所仲間のバーベキューパーティ等、本当に沢山のものを撮影し、私の生活がくまなく取材されました。しかし、実際にオンエアーされたのは、そのほんの一部でした。番組スタッフの方が付けてくださった素晴らしいサブタイトルは、”ハーレムに幸せを灯す男~富田敏明~”。

その中で、私が支援している黒人の若い女性シンガー、タミラ・サンダースをアポロ劇場のアマチュアナイトに出演させる場面がありました。私は、アポロ劇場の特別委員をしている関係で、彼女を特別推薦で出演させていただきました。彼女は全身全霊を込めてホイットニー・ヒューストンの曲を歌い上げ、見事入賞することができました。

このシーンを日本で見ていた嘉門達夫氏から、ある日、「是非、私もアポロに出演させてください」と電話がかかってきました。アポロ劇場アマチュアナイトのコメディ部門は、地元の黒人であってもなかなかウケるのは難しいこと、日本語のギャグはまず通用しないこと等を伝えると、小林克也氏に師事して英語を勉強してNYへ乗り込んできました。彼の「英語圏で自分の替え歌ギャグが通用するか、試してみたい」という長年の夢の為に何とか協力したいと、私も彼を出演させるべく努力をし、なんとか出場までこぎつけました。

当日はサムライの格好で、カツラ、袴を付け、導入部分として刀を振りかざし、ハエを振り払うというところから切腹までを演じました。しかし、さぁ、いよいよ刀をギターに持ち替えて、メインである英語の替え歌をうたう!というところで、場内からブーイングを浴び、たちまち退場、失格となってしまいました。

彼は不満やる方なく、出番終了後にアポロ劇場の前でギターを持って、本来ステージで歌うはずであった替え歌を演奏し、唄いました。その時の模様は、NHKの「英語でしゃべらナイト」という番組で紹介され、日本でご覧になられた方も沢山いたようです。


      
ハーレム125丁目で熱唱する嘉門氏         出番終了後、アポロの前で             HOMEへ戻る


Tap Dance Vol. 1 (2006年2月掲載)

ハーレムの151丁目に、タップを踊っている大きな壁画があります。これは、1930~60年代にかけて活躍したタップの神様、ビル“ボージャングル”ロビンソンを称えたもので、彼の誕生日である5月25日は、アメリカのナショナルタップデーに指定されています。その彼が住んでいたアパートが、この壁画のすぐ横の“ダンバーアパートメント”。1900年代、当時ロックフェラーが白人の為に建てたものですが、後に黒人の人達が住むようになりました。

今でもハーレムというところはタップが盛んで、ボージャングルからニコラス・ブラザーズ、片足義足のペッグレッグ・ベイツ、ハニー・コールズ、サミー・デイビスJr.、コパセテックス、サンドマン・シムス、グレゴリー・ハインズ、そしてセヴィアン・グローバーとつながっています。

ジャズ通としてよくご紹介を受ける私ですが、実はタップダンスの大ファンで、タップについては随分研究し、また随分とこの目で実際に見てきたと自認しています。いつの頃からかタップダンスに憧れ、ボージャングルのフィルムを見て、タップに関する本やフィルムを集め、NYへ渡ってからは実際にこれ等の人達に直接会って、生のステージに触れる機会に恵まれたことは、私にとってとても幸せなことでした。

ニコラス・ブラザーズは、1940~50年代に映画やステージで大活躍した兄弟で、弟のハロルドは2000年に亡くなってしまいましたが、よくハーレムのジャズクラブ“ショーマンズ”に現れていました。兄のフェイヤードは、今年1月25日に他界しました。
片足義足のペッグレッグ・ベイツは、NYアップステイトのキャッツキルに黒人として初めてキャンプハウスを作り、老人ホームの人達を招待していました。一度私も彼のキャンプを訪れ、義足とタップを組み合わせて見事に踊る彼の感動的なタップを見ることができました。ハーレムの老舗ソウルフードレストラン“シルビアズ”でも会った事がありますが、残念ながら1998年に亡くなりました。
ハニー・コールズは、映画コットンクラブやダーティダンシングに出演、ダンディでお洒落な彼は、毎日のように奥さんのマリアとショウマンズに現われ、私もよく顔を合わせていましたが、1992年に亡くなりました。
サミー・デイビスJr.は、ハーレムに住んでいました。その後ハリウッドに移り、ご存知のように大活躍しましたが、お母さんのミセス・デイビスとはずっと仲良くさせていただきました。
コパセテックスのババ・ゲインズ、バスター・ブラウン、クーキー・クック等も元気で、一度私が主催した老人ホームでのパーティに特別出演してくれました。
ステージに砂を撒いてタップを踏むことで有名なサンドマン・シムスは、アポロ劇場のエクスキューズナーを永らく務め、毎日毎日自転車でハーレムの街を散歩していました。
私の家の近所に住んでいたレロイ・メイヤーとも大変仲良くさせていただきました。
バスター・ブラウンとは一度ゴルフへ出かけました。あの小さな身体でしたが、とても飛ばすのにはビックリ。確か当時80歳近かったのには2度ビックリ。
グレゴリー・ハインズは、ショウマンズの主催したボートライディングに現われタップを踊っていました。ブロードウェイの「ジェリーズラストジャム」は、彼の最高傑作でした。
その時、グレゴリーの子供時代を演じていたのがセヴィアン・グローバーで、当時からとても可愛らしくチャーミングでした。後に、「ブリンギング・ダ・ノイズ・ブリンギング・ダ・ファンク」でトニー賞を獲得する程出世・活躍し、現在に至っています。
     

          
 ハーレムにあるボージャングルの壁画        1988年 ハニー・コールズと          HOMEへ戻る


Thank You Apollo ! (2006年1月掲載)

2005年12月28日は、アポロ劇場のスーパートップドッグ(年間チャンピオン大会)で、1500席ある劇場のチケットは既にSoldOut。私は、その夜もいつも通り、日本からトミーツアー参加の皆さんと会場へ向かいました。

満席の場内では、既に観客の興奮が高まっており、異常な雰囲気でした。その日は、これまでウィークリー・マンスリー・トップドッグ、と優勝を重ねている日本人ダンサー「タカヒロ」も優勝候補で出場する為、日本人客の姿も多く見かけました。

いつものように、ジョー・グレイの前歌から始まり、ソウルトレイン・ダンス大会へ。これは、場内から希望者を募り、踊りを競い合うコーナーで、ニュージャージー出身の若者が優勝して、賞品のアポロTシャツをGetしました。
普段なら、ここからMCが交代になり、本選に入っていくのですが、その夜は特別に“アポロの名物男ビリー・ミッチェル氏”が紹介され、ステージに登場しました。彼は、アポロの物知り男で、バックステージツアー等も担当しています。

ステージ上のビリーさんは、「私は24年間アポロ劇場に勤務し、数々の歴史やレジェンドを見てきた・・・今日はこの場で、私たちの大切なアポロファミリーに栄誉を授けたい・・・」と語り始めました。“今夜はなんだか特別だな・・”と見ていると、続いて「その彼は、日本で生まれてハーレムに住み着き、アポロ劇場に20年間、毎週日本のツーリストを連れて通ってくれたお陰で、現在、このアポロ劇場には毎年沢山の日本人が来るようになった・・・その人の名はTommy Tomita。彼は、真の我々アポロファミリーです!」
・・・と、私の名前を呼ぶではありませんか!

私は、あまりの驚きに、一瞬、何のことかわからなくなってしまいました。まさに「頭の中が真っ白になる」というのはアノ状態のことでしょう。
「Tommy、今日はどこにいるか?」とビリーさんがステージから呼んでいます。
ディレクターのワイリーさんに促され、何とか舞台に上がったのは憶えていますが、満席の観客から沢山の拍手を頂き、思わず目頭が熱くなって言葉が何も出てきませんでした・・・。

全くのサプライズです。
感動と驚きで、トロフィーをいただくのに精一杯でした。
舞台から降りてくると、みんなから「Congratulations!」と握手を求められ、やっと実感がわいてきた次第です。

アポロアマチュアナイトのステージでは、いつの頃からか、最後まで自分のパフォーマンスをすることができた出演者達が皆「Thank You Apollo!」と叫んでステージを去っていきます。この偉大なステージへの敬意を表す最大級の言葉です。

あの夜、私は興奮の余り何も喋ることができませんでしたが、20年間、毎週欠かさず通い続けたアポロ劇場に、今、ここで声を大にしてお礼を言いたいと思います。       
“ Thank You Apollo !! ”
            


              
アポロからいただいた楯(たて)        12月15日に点灯した新しいアポロのマーキー        HOMEへ戻る


メン・フー・クック (2005年12月掲載)

ハーレムの141丁目とコンベントアベニューの角にある“アレキサンダー・ハミルトン”邸。
1786年、アメリカの初代大統領だったジョージ・ワシントンの片腕として名を馳せた第一期の財務長官で、現在アメリカの10ドル札の表紙となっている人です。後に、副大統領のアーロン・バー氏と決闘して、命を落としてしまいました。その決闘した場所が、今や夜景の名所として有名なニュージャージーのウィーホーケンにある“ハミルトンパーク”です。

ハミルトンは、政治的にも活躍し、文化的にも優れた業績を残しました。また、料理の鉄人でもあり、社交界で活躍した人でした。そんな彼の料理の才能を称えて、今でも毎年1回、ハミルトン邸にハーレムの名士達を集め、邸の前の通りを遮断して大きなテントを張り、男の料理の祭典“メン・フー・クック”を開いています。

3年前に、私も地元の名士達と共に選ばれ、出場しました。
料理自慢の名士たちは、スペアリブ、ショートリブビーフ、ピッグフィート(豚足)等、こってりとしたソウルフードを作り、賑やかに食べていました。

私は、散々考えた挙句、“豆腐の味噌汁と焼きおにぎり”と言った純日本風で対抗しました。
これが意外に好評で、味噌汁も焼きおにぎりも、瞬く間に売り切れとなりました。焼きおにぎりは、シャケの具がとても喜ばれました。しかし、皆、海苔を巻いたものには全然手をつけませんでした。
黒人の人達の多くは海苔の匂いがダメで、「生臭い」と言います。

最近、日本のお寿司屋で、器用に箸を使って寿司を食べている外人を見かけますが、生ものや海苔を食べたがらないのは、たいてい南部出身の黒人です。奴隷時代からの習慣で、生ものを食することの無かった“ソウルフード”の名残かもしれません。

※ソウルフード・・・南部の黒人の家庭料理。アフリカから奴隷として連れて来られた黒人達が、過酷な労働の後、白人のご主人が残したものや食べなかったものを再生し、工夫して自分たちで食べたのが始まり。全て調理した料理ばかりで“生”が無く、味が濃いのが特徴。ソウルフードの中には、南部のサウザンスタイル、ルイジアナ地方のケイジャン、ニューオーリンズ地方のクレオールがある。


     
アレキサンダーハミルトン邸             10ドル札の顔アレキサンダーハミルトン          HOMEへ戻る


ハーレム出身政治家の本当の夢 (2005年11月掲載)

1996年4月4日午後6時10分、クロアチアに墜落した飛行機事故で、当時の米商務長官ロナルド・H・ブラウン氏(通称ロン)が亡くなった。将来を期待された若きアメリカの英雄が亡くなったことは、全世界を悲しませた。

日本へも何度か訪問し、時の橋本首相等と沢山の商談を成立させていたので、日本の政治家とも顔馴染みだった。
クリントン大統領が当選したのも、実に、氏の功績が大きく貢献したと言われ、影の立役者と噂されていた。

その年7月、ロン氏の葬儀がアポロ劇場で行われた。
氏の生家は、ハーレム125丁目の「ホテルTerresa」であった関連で、ハーレムの人々が約1500名集まり、アポロ劇場は超満員だった。
私もこの日、ロン氏の葬儀に出席させていただいた。

ロン氏の未亡人Alma、息子のMichael Arlington、そして娘のTracy-Lyn。クリントン大統領は公務の為、欠席だったが、チャーリー・レンガル下院議員、106代目黒人初のNY市長デイビッド・ディンキンス氏をはじめ、沢山の著名人が集まった。

ハーレム少年合唱隊の演奏に続き、父の遺影を両手で抱えた息子のアーリントン氏が、「私の父は、子供の頃から政治家になるよりアポロ劇場の舞台に立ち、大勢の方々から拍手喝さいを浴びる事が夢でした」、「・・・皆さん、是非父の為に、今夜は思い切りスタンディングオベーションで拍手喝さいをしてやって下さい・・・」と、涙ながらに呼びかけた。

場内全員が、涙に暮れた。
私の目にも次から次と涙が溢れた。
そして、劇場に集まった全員が、物凄い歓声と拍手でロン氏の遺影にスタンディングオベーションをおくり、それはいつまでも鳴り止まなかった。
こんな感動的な葬儀は、初めてだった。

息子のアーリントン氏は黒人運動のリーダー的存在で、現在、父親の跡を継ぎ政治家への道を歩んでいる弁護士である。

ハーレムで育ち、アポロ劇場のステージを夢見ていたロナルド・H・ブラウン氏。子供の頃から、政治家になるより人々にウケることを望んでいたという氏の生涯を思う時、あのアポロ劇場での最期の拍手喝さいが浮かんで来て、今でも胸が締め付けられる。


亡き父の遺影を前に、、、             HOMEへ戻る


アイム・フロム・モンゴル (2005年10月掲載)

1987年、中曽根 元首相の“黒人とプエルトリカンの知的問題を指摘した差別発言”が大きな問題となった。
これは、当時ハーレムに住み始めたばかりの私にとっても、大変厳しい生活を強いられる発言となった。

スパニッシュハーレムでは、日本人と間違えられた韓国人が、耳を切られた。“中曽根発言”は、米国では一部を誇張して伝えられた為に、新聞の見出しを鵜呑みにしたハーレムの黒人達から、私もかなりの抗議を受けた。その当時は自己防衛の為、「アイム フロム モンゴル」と言っていた。この顔が幸いしてか、モンゴル人になりすますことができた。モンゴルという国を知らない人達からは、「どこにある国か?」とよく訊かれたものだ。

しかし続いて、桜内・宮沢・渡辺ミッチー・・・、と相次いで当時の大臣達の不本意な発言があり、とても迷惑をした。
当時私が住んでいた123丁目マンハッタンアベニューのアパートで、私を狙っての銃撃があった。持っていたバックが砕けて飛び散り、わき腹に熱い痛みを負ったが、幸いに軽傷だった。すぐそばのハーレム28分署に、被害届けを出しに行ったが、担当した警察官も「大したことは無い、スグに医者に行って手当てをするように。」と言っただけで、事情聴取も何も無く、容疑者を探すことなど全くせずに帰された。

当時のハーレムは、拳銃を持っている者が腐るほどいた時代だった。
近所のジャズクラブに行くと、拳銃らしきものを持っている者をよく見かけた。顔見知りとハグを交わす時にも、内ポケットに忍ばせている拳銃の感触がよく伝わってきた。こんな奴等とは絶対に喧嘩やイザコザを起こさない様にしよう、と気を付けていた。

翌88年のある夜、地下鉄6番線で、ラテン系の若者達に囲まれ因縁をつけられる事件があった。ナイフをチラチラさせて「金を出せ!」と脅かされた。かなりヤバイ雰囲気になってきた時に、グループの1人が突然、「新聞でコイツのことを見たことがある!アル・シャープトンと一緒に写っていた奴だ。」と言い出したので、アル・シャープトンは私の友人だと言ってやったら、皆一斉に引き上げて行ってしまった。
アル・シャープトンは、黒人アクティビティ運動家で、当時からハーレムのヒーローだった。

最近、ガイドブック片手にカメラをぶら下げハーレム散策をしている沢山の日本人を見る度、こんなに安全になったハーレムの街並みがまるでウソのようだ、と昔のことが思い出される・・・。

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アポロ劇場と日本人 (2005年9月掲載)

1934年から続いているアポロ劇場の「アマチュアナイト」。歌あり、踊りあり、タップありのステージは、1500の客席を埋め尽くした観客の声援と拍手とブーイングで全てが決まる。ブーイングが30秒続くと、サイレンが鳴り、ピエロが出てきてマイクを取り上げられ退場、以後6ヶ月間出られなくなる。凄まじいステージだ。

このアマチュアナイトを1986年より19年間、毎週ずっと見続けている私にとって、印象深い場面は沢山ある。
18年前には、バブルガムブラザーズが出て大喝采を浴びた。その2年後に、関西のヒューマンソウルというグループが出演し優勝した。次の年には、NHKの歌のおねえさんだった坂口美樹が2度優勝し、歌手としてデビュー、レコードも出した。8年前に、関西のハーモニカ少年太郎君が準優勝し、話題を集めた。翌年、小室哲哉のアサヤンという番組で26000人の中から選ばれ、華々しくアポロに挑戦した小林ユキエ。これは失敗し入賞もできなかった。海老名中学1年生の船木あつし君が勝ち残り、年間チャンピオン大会に出場。その後スカウトされ、ユニバーサルよりデビューした。マジシャンMr.マリックの娘、松尾ルナが入賞し、後にデビューした。皆、私の家に下宿し、ボイストレーニングを受けていた。

これらの噂を聞き、5年前に平井堅がアポロに挑戦したいと言ってきた。はじめは「日本の童謡をアカペラで歌いたい」と言ったが断られ、私に出演コーディネイトの依頼が来た。アポロでは英語の曲を完全に歌えなければ駄目だと伝えると「スティービー・ワンダーのレイトリーなら歌える」とテープを送ってきたが、今ひとつピンと来ないうちにNYへやって来た。お母さんとお兄さんを引き連れ、かなり気合を入れて来たようだった。前日、レイ・チュー・バンドを特別に頼み、異例のリハーサルをしてもらった。今回はゲスト出演ということになり、アカペラでゴスペルのアメージングレースを1節だけ、続いてレイトリーに繋げるアレンジにして、なんとかうまくいった。ステージは無事終了。居酒屋リキで打ち上げパーティをやり、大いに盛り上がった。帰国後、アポロの出演と成功が大きな引き金となり、たちまち大スターになってしまった。

これを聞きつけて、今度はウルフルズのトータス松本がアポロに挑戦したいと言ってきた。彼は、サム・クックの曲や、ボビー・ウォーマックの曲を沢山カバーしているので、サム・クックの I Bring to home to me を歌うことにした。彼もゲスト扱い。NYの日本人向け新聞に“トータスがアポロ出演”という記事をちょっと載せただけで、NYの日本人ファンが600人も集まったのにはアポロ側もビックリ。途中で2番の歌詞を間違えて、本人はかなり落ち込んでいたようだった。

今年の1月には、嘉門達夫が私の噂を聞きつけて「是非アポロに出演したい、ゲストではなくアマチュアとしてコンペティションに出場したい」と言ってきた。普段でもコメディ部門は難しい、しかも全編英語じゃなきゃ駄目だ、と伝えると、早速、小林克也氏から特訓を受けてやって来た。さて当日は・・・、ラストサムライの格好をし、腹切りまでやって、いよいよメインの歌に入る直前に大ブーイング。たちまちピエロが出てきて退場させられてしまった。その模様は、日本の「英語でしゃべらナイト」という番組で放送された。

※アポロに挑戦したい方、どうぞ私にご連絡ください。

        
昔のアポロ劇場               今のアポロ劇場 (2005年9月現在)        HOMEへ戻る


R&Bの女王 ~Ruth Brown~ (2005年8月掲載)

私が始めてルース・ブラウンを見たのは、1986年11月。今はもう閉店になってしまった「ベビーグランド」と云うハーレムの小さなジャズクラブに出演していました。
あの、ルース・ブラウンの名前をチラシの中に見つけた時には半信半疑でしたが、まさにルース・ブラウン本人でした。ビックリしました。“(Mama)He Treats Your Daughter Mean”の大ヒットを出した彼女が、突然姿を消してしまったのが1960年代後半。・・・その彼女が、私の目の前にいたのです。

ルース・ブラウンは、アポロ劇場のアマチュアナイトからデビューし、“5-10-15 Hours”や、“Gee Baby, Ain’t I Good to You”・・・と、次々とヒットを飛ばし、スターになりかけていました。当時、マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク等の大スターを従えて、アポロ劇場に出演した噂も聞いていました。そして、53年の大ヒット曲“(Mama)He Treats Your Daughter Mean”を出し、売れに売れていた頃のことです。

あまりに売れっ子になったルースには、実は当時7歳の娘がいました。その娘から「どうして、うちのママはいつも家にいないの?」と云われたルースは、このままの生活ではいけない、と気付き、思い切ってロングアイランドのスクールバスの運転手になったのです。ルースは、来る日も来る日も、毎朝毎晩、娘の為にスクールバスを運転し、娘と一緒に生活し、そして娘の為に歌いました。やがて、娘が17歳になった時、こう言われました。「ママ、有難う。私はもう十分ママを独り占めにしたから、これからはママのために歌って。」
彼女は再び歌手の道へ戻りました。

復活はしたものの、昔ほどの人気もなくなり、ヒットも無く、小さなクラブで歌う毎日が続きました。しかし、母としての人生を務め、母の幸せを生活したルースは、長いブランクにもかかわらず、以前にも増して歌が良くなっていました・・・。

私は、そのことを13チャンネルのドキュメンタリーフィルムで知り、思わず涙がこぼれました。

やがて1989年、ブロードウェイミュージカル「Black & Blue」の主役に抜擢され、トニー賞を獲得。そして、前にも増して大活躍をしてきました。

最近は、ちょっと足を悪くして、ステージでは座ったままですが、相変わらず素晴らしいステージを展開しています。
確か80歳くらいになっている筈です。もし近いうちに、NYエリアでルース・ブラウンのステージがあったら、是非ご覧になってみて下さい。


R&Bの女王~ルース・ブラウン~         HOMEへ戻る


オルガンジャズ (2005年7月掲載)

幻の名器と言われている“ハモンドB-3オルガン”。ヤマハのエレクトーンのモデルだと言われている。
レズリーのスピーカーは、羽根が回っていて、重厚な響きがする。二段になった鍵盤は、オーケストラのトーンが出せる。左手とペダルでベーストーンを出すので、ベーシストは要らない。そんなことから、ハーレム地区に250箇所以上あると言われている教会のほとんどが、ハモンドB-3オルガンを所有している。そして、ハーレムのジャズクラブでも、このオルガンを置いている店が多い。
30年前に製造中止になっているけれど、相変わらず人気があり、マニアの間では根強い人気の楽器だ。今では、中古でも一台、スピーカーとセットで50万円前後すると言われている。

日本では、ジミー・スミスの名が有名だが、このハーレムには優れたオルガン奏者が沢山いる。中でもホンキー・トンク・ビルドゲット(故)、ジャック・マックダフ、ジミー・マックグリフ、ソニーリストン・スミス、ルーベン・ウィルソン、セレノ・クラーク等が知られている。ラリー・ゴールディングが若手では人気があるが、彼もハーレムに来ると、まだまだと言う感じがする。

私が20年前に、ハーレムの「ショウマンズ」で初めてビルドゲットを見かけた時は、見事なカツラを付けていたので物凄く若く見えたが、当時84歳だった。彼は、1940年代「カルドニア」の大ヒットでお馴染みのルイ・ジョーダン・オーケストラに、初めてオルガンを持ち込み注目された。そして、1955年に、あの「ホンキートンク」の大ヒット曲を生んだ。全米のジャズメン達がこぞって演奏し、大流行した。
同じ年、エルビス・プレスリーの「ハートブレイクホテル」の大ヒットが無ければ、全米一の売り上げになる筈だった。

ビルドゲットは、「ホンキートンク・ビルドゲット」と呼ばれるようになった。

そのホンキートンクが、私の目の前で、相変わらず「ホンキートンク」を演奏しているのを見た時には感動した。
彼は、「是非一度日本へ行きたい、どうしても行きたい」と、私の顔を見ると口癖のように言っていた。私も彼の願望を叶えてやりたくて、日本のプロモーターに随分働き掛けたが、とても難しかった。

その彼も、1999年、88歳でとうとう亡くなってしまった。
一度も日本へは行けなかった。

52丁目の6番街と7番街の間に「W.C.Handay Street」の標識が残っている。
これは、セントルイスブルースを作曲した「ウィリアム・C.ハンディ」の名を記念して作られた。これを見た日本人から、「ハンディキャップ用のW.C.があるのか?」と聞かれたことがある。
この辺りは、「ホンキートンク(ブルース小屋)」が沢山あったと言われている。


幻の名器 ハモンドB-3オルガン      HOMEへ戻る


ハーレム・ルネッサンス (2005年6月掲載)

現在、私が住んでいるハーレムの“Striver’s Row(ストライバースロウ)”は、1920年代初めに成功した黒人達が住む、ステイタス地区でした。グランドセントラル駅やブルックリン美術館を作ったマッキム・ミディ&ホワイトの設計で、縦長屋式のとても美しいタウンハウス群です。
その昔、隣のブロックには、セントルイス・ブルースを作曲したウィリアム・C・ハンディが住んでいて、私の家の並びには、フレッチャー・ヘンダーソンやエイビー・ブレイクが、同じ139丁目の並びには、あのビリー・ホリデイが住んでいた家があります。
現在では、ベーシストのバスター・ウィリアムス、マンハッタン区長のヴァージニア・フィールズが住んでいます。ARCゴスペルクワイヤーの創立者ジェームス・アレンも138丁目に住んでいます。
ご近所には、94歳まで歌い続けた歌手のアルバータ・ハンター、そして「A列車で行こう」の作曲者ビリー・ストレイホーン、10年前に亡くなったピアニスト、メリー・ルウ・ウィリアムスが住んでいたアパートも残っています。
デューク・エリントンが住んでいた157丁目のセントニコラス・アベニューには、National Historic Landmarkに指定されたアパートがあります。
この様な沢山の歴史が残っている地区に住み、ジャズの巨人達が住んでいた跡を訪ね、探し当てるのがとても楽しみです。

1920年代から40年代にかけての華やかなハーレム・ルネッサンス時代、沢山のジャズクラブや劇場が立ち並んでいた135丁目界隈の、ルネッサンス・ボールルーム、ラディウム・クラブ跡は、今は廃屋になって残っています。
142丁目にあったコットン・クラブでは、デューク・エリントン・オーケストラ、キャブ・キャロウェイが毎夜演奏し、135丁目にあったスモール・パラダイスでは、ディージー・ガレスピー、チャーリー・パーカーが演奏し、131丁目にあったコニーズ・インでは、ジョン・コルトレーンが演奏。132丁目にあったラファイエット劇場では、ボージャングル・ロビンソンの華麗なステージがあり、アポロ劇場では、エラ・フィッツジェラルドが歌い、ビリー・ホリデイが歌った・・・。そんな昔の夢を追いつつ、毎日この近所を徘徊しています。
ジャズの歴史に興味のある方はどうぞご連絡ください、私がハーレムをご案内いたします。


Striver’s Rowのタウンハウス群
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ハーレムジャズの誕生 (2005年5月掲載)

1900年代初頭の鉄道開通、1904年のニューヨークの地下鉄開通を見込んで、沢山の建築業者が白人高級者向けの住宅をハーレムに作った。
当時は世界大戦後の不景気・建築の遅れなどから売れ残り、沢山の空き家が出た。丁度その頃、奴隷解放で南部の黒人達が移り住んできた。これを嫌った白人が追い出そうとしたが逆に自分達が追い出され、当時6万人という全米最大の黒人街が一夜にして出来上がった。

丁度同じ頃、ニューオーリンズで誕生した“デキシーランドジャズ”がミシシッピー河をさかのぼり、メンフィス-セントルイス-シカゴ等を経てニューヨークへ辿り着き、沢山のジャズクラブや劇場を作った。アポロ劇場・コットンクラブ・コニーズイン・サボイボールルーム・ミントンズプレイハウス等、40~50軒の劇場やクラブがオープンし、ルイ・アームストロング、ファッツ・ワラー、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド等が活躍、一大歓楽街が出来上がった。
その模様は、フランシス・コッポラの映画「Cotton Club」でも登場している。

しかし、これらの施設は白人専用で、黒人は入れなかった。
そんなことから、黒人達の不満がつのり、やがて暴動へとつながる。1943年に起きた大きな暴動で、沢山の死傷者が出て、ハーレムには白人達が近寄らなくなった。やがて、1950年代には、シビルライト・ムーブメント(差別撤廃運動)が起こり、マルコムX、Dr.マーティン・ルーサー・キングJr.等の出現により、ハーレムはますます黒人の象徴的な街となり、イエローキャブも行かなくなった。

1960-70年代には、朝鮮戦争・ベトナム戦争のあおりで、職を失った黒人達が持ち帰った麻薬・精神病・ストレス等が蔓延し、街も次第にスラム化した。

しかし、明るい話題もあった。
1941年5月、118丁目“Hotel Cecil”の中にあったジャズクラブ“ミントンズプレイハウス”で行われた「チャーリークリスチャンのミントンズプレイハウス」という1枚のライブレコーディングが“ビバップ”発祥の貴重な1枚のレコードとなる。デイジー・ガレスビー、セロニアス・モンク、チャーリー・クリスチャン達の貴重なこのライブ盤が、後の“モダンジャズ”の元となる新しいジャズの技法“ビバップ”誕生の証だった。

その“ミントンズプレイハウス”を、俳優のロバート・デニーロが買収し一時話題になった。
現在デニーロは手を引き、ハーレムで人気のジャズクラブを経営していた私の古くからの友人が、今秋にオープンさせると噂されている。
数年前、国連50周年でNYを訪れたジャズ好きの大江健三郎氏にハーレムをご案内した折に、私が、是非といってお連れした場所である。建築中の室内には当時のミューロー壁画も修復され、“セロニアス・モンク”が弾いたピアノも残っていたのを感慨深げに見入っていた氏を思い出す。

以前、“ミントンズプレイハウス”の看板が付いた日に、近所の人達が並んだという噂のジャズクラブ誕生までもう少しだろう。


ミントンズプレイハウス                  HOMEへ戻る


移り行くハーレム (2005年4月掲載)

ジャズに魅せられ、ハーレムに暮らして18年。地元の人達の暖かさと優しさに触れ、毎日暮らしています。
突然の雨に軒下で雨宿りしていると、傘を差し出し「持って行きな。いつでも返しに来ればいいよ。」と云ってくれた85歳の元気なおばあさん。バスに乗りこんだ後、メトロカードが切れていて小銭も持っていないことに気づき慌てている私に、「今度の時でいいよ。」と云ってくれた顔見知りの車掌さん。私はすっかり忘れてしまっていたのに、突然“以前貸していた2ドル”を返しに来たアル中のおじさん・・・。ここにいると、私の生まれ育った“東京浅草の下町”を思い出させる出来事がよくあります。今では、もうすっかり無くなってしまった人情がまだまだ沢山残っている街です。

100丁目より上には近寄らない白人達、イエローキャブも来ないこの街には、1900年代初頭の奴隷解放後に、南部から来た黒人達が多く住んでいます。サウスカロライナ、ノースカロライナ出身の人が多く、サウザンホスピタリティ(南部の暖かいもてなし)が残っているのです。

しかし、この2、3年でハーレムは変わり、クリントン元大統領が125丁目にオフィスを、バスケットのマジック・ジョンソンが「ハーレムUSA」という巨大なショッピングモールを作りました。また、俳優のロバート・デニーロが買収したことで一時話題になった、モダンジャズ発祥の地「ミントンズ・プレイハウス」も近々オープン予定です。

更に2006年には、125丁目のPark Ave.にいよいよハーレム初の大型ホテル「マリオット」が完成予定。アポロ劇場の並びには「Loews Victoria Theater」が、他にもB.B.キングエンターテイメントセンター、ジャズミュージアムなどが続々建設予定と言われています。

その反面、ハーレムに古くから残る町並み、歴史的建造物、史蹟等が失われていくことが心配です。1947年に制定された法律「レントコントロール」で地上げ屋たちが放火し、焼けただれたビルや廃屋がまだ多く残っている地区もあります。ハーレムの再開発が進むことにより、環境問題、そこに住んでいる人達の住宅・雇用問題が心配です。

私の生まれ育った浅草も、古くから残る浅草寺境内・仲見世商店街・元浅草に点在するお寺街と、近代化していく元国際劇場通りのビル街が大きな問題となりました。しかし、浅草に古くから残る「三社祭り」と、若者達の祭り「浅草上野のサンフェスティバル」が仲良く共存してきて、新しい街づくりの融合がうまくいきはじめています。

ハーレムらしい町並み・小さなジャズクラブやソウルフードレストランが、近代化していく125丁目の通りと共存して残っていくことが、ハーレムを愛する私の願いです。

~浅草系ハーレム人 トミー富田


Text : Tommy Tomita    Construct&Photos : KimikoMatsuo


<トミー富田 プロフィール>
東京浅草生まれ、六本木ジャズクラブの元オーナーで、現在はハーレム在住18年の音楽プロデューサー。地元ミュージシャンと深い親交があり、日米間のライブをブッキングしている。’94年にはアジア人初の「Dr.マーティン・ルーサー・キングJr.アワード」を受賞。ハーレム商工会議所会員、アポロ劇場ボードメンバーで、’97年よりHarlem Japanese Gospel Choirの主宰、まさにハーレムに受け入れられた日本人である。
著書には「ハーレムスピークス(新宿書房)」・「劇場都市NY読本(七賢出版)」があり、ジャズやハーレム関連の記事も多数執筆。
20年続けている大人気の「トミー富田のハーレムツアー」は、日本からのファン、リピーターが多いことで有名。

*ハーレムツアーのお問い合わせ・・・電話1-646-410-0786 e-mail harlemtommytour@hotmail.com

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